障害者差別とたたかう団体として誕生
1970年頃は「障害を持つ人たちは山の中の施設に隔離されることが幸せ」といわれた時代でした。
1971年、障害者隔離を差別としてたたかい、障害のあるなしの隔たりを越えた共同体を建設するという理想を掲げ、若い障害者1人と健常者2人が一緒に暮らし始めたのが、「わっぱの会」のはじまりです(「わっぱ」の名は「輪っぱ」、子どもを表す「小童(こわっぱ)」に由来しています)。
名古屋市内の古びた木造一軒家からの出発でした。
翌年には、木造アパートに共同作業所を開設、産地直送卵や野菜の販売、印刷、卵ケース等の紙器加工をし、生活に必要な最低限の収入を確保。
その後、活動をより拡げるため、自分たちの土地と建物を購入する「わっば建設運動」計画を立てました。
民間からカンパを集める活動と並行して、名古屋市に対し、土地貸与を求めました。
進まない交渉を打開するために市長との面会を要求して、名古屋市役所前でハンガーストライキを行うまでに発展した取り組みは、人々の耳目を集めました。
そして、名古屋市や市民からの協力を得て、1977年に"ふくえ共同作業所"開所にこぎつけました。
この頃、「福祉工場」の看板を掲げながらも、仕事のちょっとしたミスを理由に、障害をもつ従業員を瓶やほうきで殴る、食事を与えない等の差別と虐待を行っていた会社を糾弾したり、身体障害者への差別を助長するとして童話『ピノキオ』の告発も行いました。
わっぱの歩み 1971年-1979年
□1971年
わっぱの会として発足
□1971年
障害者1人、健常者2人が名古屋市昭和区の木造一軒家で共同生活開始
写真:1970年代に共同生活したアパート(2004年撮影)
□1972年
ダンボール加工、印刷等を行う「わっぱ共同作業所」を開所
□1973年
障害をもつ従業員への差別と虐待を行っていた坂本硝子を糾弾
□1974年
「教育を考える集い」開催(後に共育をつくりだす会へ発展)
□1975年
共同生活体や共働事業所のための土地貸与等を名古屋市に求め、市役所前でハンガーストライキを実施
□1976年
身体障害者への差別を助長するとして「ピノキオ」告発
□1977年
市からの補助金支給を受け、ダンボール加工等を行う「ふくえ共同作業所」を昭和区に開所